ゲーテアヌム
ロンシャン前
ロンシャン内部
ガウディ

<雑誌「新建築」掲載記事及び執筆文>

 建築思考−ネガティブなるもののすすめ(1992年「新建築」記載)

1992年(46歳)、独立後2年目
「20世紀」特別視察団レポート(ヨーロッパ)
−建築思考−ネガティブなるもののすすめ−

味覚の深みとか豊かさを追い求めていくと、そこにどうしても苦味といった要素を加えることが必要になる。芸術・建築にも心身の五臓六腑を満足させるためには、苦味に似た何か「ネガティブ」なるものが必要なのではないだろうか。

「ネガティブ」とは、人の精神の深暗部に秘むデーモンと呼ばれる部分から産まれ出づるもの、善のものより悪なるもの、明るいところより暗いところにあるもの、そして美なるものより醜や怪の側にあるもの、これらに共通してあるもののことである。

20世紀のモダニズム運動をこの観点から見れば、19世紀末の固定化し静止してしまった伝統様式への反逆として「ポジティブ」な概念を提示することにより、時代の病を癒し、希望を与えようとした運動であった。暗いところには光を、不条理なものは合理へ、そして装飾的なるものには機能で、といった様に。

それからほぼ1世紀を経た今日、「モダニズム=ネガティブ排除運動」の副作用が明白になり、それだけでは拾い切れない現代の複雑さは、ストレスとなってガンやエイズといった難病をも産み出した。新しい文明治療法が叫ばれる中でポストモダンなる言葉が世に現れるに至るが、モダニズムの歴史に残した役割はあまりに大きく、今世紀から来世紀へと多種多様な治療法が発表・実験されるであろうが、その混迷の中でも本質的なものだけが淘汰され残るのであろう。

本質的なものとは何か。精神の安定には、いたずらや非行、そして不道徳なるものも必要不可欠なように、ポジティブなだけでなく、ネガティブな苦味を入れることが必要である。そして、それによってできるデーモンの魅力をも内包した「総体なるもの」、これが本質なものであり、今後生き残る条件となるであろう。

今回の「建築20世紀」特別視察団で、奇妙な形をした3つの建物を見学した。どれもモダニズム運動期に建てられたにもかかわらず、モダニズムの枠の中にあてはめ切れない不可思議な建物である。数ある同世代の建物の中で、この異色な3つの建物に流れる共通のもの、それこそが「総体的なるもの」なのではないだろうか。

ルドルフ・シュタイナーの「ゲーテアヌム」――人智学そして神秘主義者でもあるシュタイナーの唯一の建築物。外観の究極的形態や苦悩に満ちたキリスト像の左半分の顔を見て、自らの内面をえぐられる思いをし、不快に思う人も少なくないであろう。ステンドグラスからディテールまで、いわばネガティブの宝庫ともいえるこの建物に総体的生命力を感じる。

アントニオ・ガウディの一連の造形――当時、「狂人の如き建築家」そして「史上最悪のカテドラル」とまでいわれたサグラダ・ファミリアの完成は後継者の力不足を越えて、人類史上の一大イベントになるに違いない。カーサ・バトリョやコローニア・グエルの礼拝堂の内部空間も、アールヌーボーや表現主義などという批評を越えて「神(ポジティブ)と悪魔(ネガティブ)の葛藤と調和」が「自然」をテーマとして具現化され、今も生き続けている。ガウディの書斎には詩人ゲーテの著作が見出されたとあり、この同時代人の2人は、ドルナッハとバルセロナという距離を越えて、その有機的自然科学論を介して、高い精神性と感受性が共有されていたのである。

そして、あえて挙げる今ひとつの建物は、モダニズムの無理強い者ル・コルビュジェのロンシャン教会である。彼がそれまで主張してきた機能主義建築から、当時世界の建築家達を唖然とさせた有機的なものへの変転は、彼本来のもっていた内なる感性の発露となって隠されていた積年の思いを果たしたという感がある。闇を駆使した内部空間は、天(黒く塗った曲面の大屋根)と地(勾配床と厚い壁)の間で、神を壇上から人の前へと連れ出し、人との関係をやさしく解きほぐしている。モダニズムの旗手として高い精神をもつ彼であるゆえにまた、世の「ネガティブ」の存在を見逃すわけもなく、その感受性が晩年あのような総体的な造形をつくらせるに至ったのに違いない。

これら3つの建物に共通するものはどれも曲線を多く使った宗教建築である、などといったことを言おうとしているのではない。リチャード・マイヤーのどこまでも明るく白い空間には見事なほど「ネガティブ」がない。また逆にアルド・ロッシのあの絶望的なサン・カタルドの墓地やガララテーゼ地区の集合住宅には「ポジティブな生命力」が全くない。“秋刀魚のはらわた”だけを食卓に出されても味覚は満足しきれないであろう。

いっぽう、古代の幾何学的建造物の造形や装飾の中に宇宙生態へのけなげな製作態度と生命力を感じ、その総体としての精神的深さを見出すことができるし、フランク・ロイド・ライトの建築にも、ルイス・カーンの空間にも総体的包容力が感じられる。また、メキシコのルイス・バラガンに至っては、それが昇華され「静けさ」さえ感じる。ピカソの挑戦的な造形の中にも総体があり、ルキノ・ビスコンティの映像の中には、美の本質はむしろネガティブサイドにあるといった“悪魔的ささやき”さえ隠されていて、その総体性は計り知れない。

清く正しい明るさは、人に快適さを与え、世を安定させる作用を持つが、また一面、浅く平凡である宿命を持つ。危険な暗闇や、怪しい誘惑の世界に身を委ねることは勇気のいることではあるが、月の光で世を見ることも、美の極み、精神の奥に続く道筋を飛躍的に伸ばすことになると思うのだが。

「建築20世紀」特別視察団に参加して見ることができた数々の傑作は、単に20世紀というひとつの時代を代表するだけのものではなく、21世紀を見据える上で多くの示唆を含んでいる。今回のツアーは、このことを改めて考えさせられるものであった。


 ライト・カーン・そしてポストモダン(1981年「新建築」掲載)

 KAWAMURA MEMORIAL MUSEUM OF ART (1990年執筆)